赤の絵の前に 赤の花を置きました。 ガラスの瓶に入った赤の花は枝まで赤く 一日の短い時間少しだけ空いた窓から斜めに指す光みたいです。 ちょっと上がって楽しい気分。 赤い絵がその花をその場所に咲かせたみたいと思います。 赤の花は11個。枝の右と左に交互についています。 参道みたいと思います。私は何度も数えて、お祈りをしている気分です。 赤の花の後ろにある赤の絵に花が養分をやっているみたいです。 これから絵はどう変わるのかしらねと思います。 あの参道を歩いていくとあの絵に着いて私も絵になれるのにと思います。 花を置きました。 晴れた日の雷って特別な気持ちになります。 嘘なのかな。なんだろう。こんなに晴れてるのに。 気持ちがあまり経験しないことの中にいるせいで、 もぞもぞします。 この、尾てい骨のあたりが。 あとね。自分が映像の中に居るような気がしてきちゃいますね。 映像の中だと自由じゃないですか? どんなに晴れてても簡単に雷の音でもなんでもつけられるじゃないですか? 幸せそうな顔してみんな遊んでるのに、ずっと爆撃音なってたりね。 こんな日はあの日のことを思い出しますね。 どの日のことだろう。 そんな日は今までなかったら、今日の日を思い出すことにしますね。 雷止まっちゃいましたね 映画終わっちゃいましたね エンドロールにはまだ早くないですか? なんかエモくないですか? こう。いま、私の頭に流れてる音楽分かります? えーー・・・わかりませんよ。 ちょっとゆっくりだけどそんなにゆっくりじゃないんですよ。 こう、ほら、たんたたんたたん~くらいの。 えっ?? それ、俺も今頭の中で・・・ ってなったらおもしろかったのにね ・・・。 あっごめん。俺が悪いと思うんだけど、そんなにすねないでもらってもいいかな。 とにかくね、こんなに気持ちのいい青空なんだよ。 ビールが飲みたい。 今は、飲んでるの、レモンサワーだけど、ビールが飲みたい。 まともにしゃべれなくなるまでビールを飲みたい。そしてここで寝たい。 起きたら、一本もビール飲んでない今に戻りたい。 永遠にビールを飲みたい。 堕落。 ビールってそういうもんでしょ。 今年ももう色々あったからね。 色々あって、何もなかった一年だからね。 でも、あったからね。 こんなにままならない季節はなかったかもしれないね。 ・・・。 ・・・。 せーの! えっ。こういうときに二人で言う何かみたいなのあったっけ? たんたたんたたん~ それをせーのでは難しいわ。難しくない?難しいよね? どう思う? ふざけてるだけなのに激しく詰め寄ってこないでほしいと思う。 さて、また、雷が鳴ってきましたね。 今度は向こうの方に雨雲が見えますね。 僕にはみえないなぁ。 そうですか じゃぁ私もみないことにします。 エンドロールにはまだ早い?でしたっけ? さっきのエモい奴。エモいかっこいい奴。 まだ映画の中に居たいんで。 (詩ぺ)公開済み 映画を見ているとき、ああ、映画は光だと思う。 これは全て光なんだと。 映画を思い出すとき、ああ、映画は音だと思わされる。 記憶の中の光を僕はたどれない。光は映画になってくれない。 音を思い出すと自然と映画になっている。 私にとって、現実の映画は光によって導かれ、記憶の中の映画は音によって再生される。 何度も何度も何度も。 茄子を8個と山芋を煮込んでいる。 昆布と椎茸と海老で出汁を取って。 茄子を洗って、包丁をいれて、 昆布と椎茸は少し硬く絞った布巾で拭いて、汚れを取ってぬるま湯に放り込んで。 海老は出汁パックに入れておく。 山芋は皮を全部剥かないでたわしで洗ってこそげたところだけ。 適当な大きさに切って、これは、茄子に少し火が入ってから入れようか。 ぐずぐずになって、汁が汚れるのが嫌だ。 茄子に包丁を入れるときいつもちょっと迷う。茄子に限らずだけど。 この茄子はここだなってなんだか確信めいたものがわいてそれに従ったり、 これはちょっと形が難しいなと思ったら案の定変な形に包丁が入ってしまったり。 ああ、このきれいな茄子の色、煮込んでも少しは残るといいな。 そう思いながら、塩水に浸して、酢を入れる。 手を拭いて、本を読む。立ちながら。壁に背を預けて。不思議とここが落ち着くんだよな。 時間がたったら、鍋に茄子を入れて、海老も入れて、落し蓋をして火を入れる。 本を読む。 コンロのすぐそばに椅子を持ってきた。 鍋が沸いてくる音が聞こえたら、日本酒とほんの少しのみりんとお醤油を入れる。 音は静かになった。 茄子に火が通るのを想像する。想像の茄子はまだまだ固い。 音はどんどん変わっていく。少しずつ激しく。大抵は規則的に。たまに不規則な音が入る。 蓋をして。少し火を弱める。 また本を読む。 本を読むのに邪魔なくらいの音になる前に、 火を弱めて、鍋の中を見る。茄子はまだきれいな紫。 もう少ししてから山芋を入れよう。 小さな火の音と、沸騰した出汁と煮込まれる茄子の音。 小海老の味が水に染み出て、茄子に染みこんでいるだろう、 昆布と椎茸もそれに重なっているだろう。。 そろそろ山芋を入れようか。山芋は少し硬めに仕上がるといいな。 また本を読む。一度蓋をあけたから、音はまた静かだ。 何かを煮込む工程の中、僕のしおり。きりのいいところまで読んで、火を止めた。 茄子の色は落ちてしまって、いくつかは煮崩れしたが、山芋は想像通りに仕上がった。 この物語は好き? ふとしたときに聞いてみる。 私が歩くこの道は 私にとってファンタジー 魔法も、魔物も冒険も、わくわくするもの全部ある 私は私に聞いてみる この物語は好きですか? 朝起きて 生まれた世界に 挨拶をして。 私は今日もうちを出る 時間を 触って 大事に 撫でて 身体を 思って 大事に 感じて 働いて お話をして 家に帰って眠りについて 明日もこのお話の続きを自分で描いていく。 感じのこしたことはないかな? 後悔はある。でも今日は今日で今日のことを。 昨日や前と同じ行為も 今日に出来るのは今日だけ。今日は今日で今日だけのこと。 私はこの物語が好き たまに嫌い 時々大嫌い でも最後には必ず好きになるように 突然本が閉じられても それはそれ まぁいいんだと思えるように 毎日を吸い込んで 私は私に私をささげる この物語は今日はここでおしまい (おしまい) きれいなものが好きです。 きれいってなんですか? なんできれいって思うんだろう。 どうしてこの感情のことをきれいだって 僕は呼ぶことにしたんだろう。 分からないけど、心が、普段感じない温度や色を感じたり、 動いたり逆に止まったりすること、 普段と違う強い感情を身体が受け取って 心が反応すること/ものが、 きれいなんじゃないかなと思います。 でもそしたら、憎しみも悲しみもきれいになります。 本人以外からしたらそうなのかな。 本人はそれどころじゃないのにね。 たぶんそんなことをきれいだなんて絶対言ってほしくないのにね。 きれいなものに倫理や常識は関係ない。 時として、命の危険があるくらいの憎しみも悲しみもきれいだと思ってしまうんです。 きれいってことは一番いいことなのかな。 僕はそう思ってきました。 きれいななものが好きです。 いろんなつらい思いも悲しみも、 迷いもとまどいも あがきも何もかも。 僕はいまそのことの渦中に居て、 そのことのなかでただ生きているだけだけど、 僕以外からしたらもしかしたらこれをきれいだなと思う人もいるのかもしれない。 俯瞰で見たときに人間という生き物がした何かの行為が他の人間を動かすことがよくあります。 きれいって思わなきゃいけないんですか? きれいって言葉が嫌いな人もいるでしょう。 僕はきれいなものが好きですけど、 僕以外は世界中が僕じゃないので、 きれいなんてどうでもいいと思っている人も たくさんいると思います。。 僕のこのきれいだなって感情は、 人によっては、たのしいや、やさしいや、せつないという言葉なのかもしれません。 知らないことを知った時のわくわくとか、 ぎゅっと抱きしめられたときのどきどきとか。 きれいです。 好奇心や愛という名前で呼ぶんじゃなくて、 僕はきれいだなと呼びたいです。 言葉にならない気持ちに 僕はきれいって言葉で名前を付けて、 僕のものにしています。 なるべくたくさんの人がきれいって思うことをしたい、つくりたいとおもっています たくさんの物語を見て、本を読んで、絵を見て、ひととお話をしました。 人の心を理解しようとしていたんだと思います。 それがちっとも間違いだと思いませんでした。 色んな人が世界中に居て、ついつい自分を基準に考えるしかないのに、 たくさんの人が創ったものを見て沢山出会った人と話して、 そしたら、心地よいなと思う感情が流れるときがたくさんあって、怖いときも、苦しいときもあって、 たくさん経験しても、たくさんたくさん経験しても、きれいがなんだかちっともわかりません。 空は綺麗です。 純粋に人をいたわったり、寄り添いたいなと思う気持ちはきれいです。 でも、誰かはそのことで傷つくかもしれません。 僕のキレイで傷つく誰か。 見て、心が、今、ぷっくりしてるよ。 それに付き合いきれない人もいるでしょう。 きたないってなんですか?わかりません。 、は 嫉妬はきたないでしょうか。 でも、やっぱりそれも人間で、人間は人間である限りきれいだと思います。 人を殺すことも?人をだますことも? それをきれいといってしまうことは、してしまった本人は口が裂けてもいってはいけないと思います。 でも、よくぞ言ってくれたと、心があたたかくなる人もいるかもしれないです。 それは綺麗なんじゃないでしょうか。 僕のきたないは誰かのきれい 僕の好きは誰かの嫌い 僕の楽しいは誰かの苦しい。 誰も傷つかない、きれいな言葉なんてあるのかな あるといいな。 人は何をしようと思わなくても人だから いきて、このままで、息をするだけで、きれいだなと思います。 つくろうとしたきれいが嫌いです。 でもつくろうすることがそのままなら、それはそれでそのままで。 いま、おはようを思いやっています。 おはようという言葉を。 あいつの使うおはようは嫌いでも、 言葉自体を嫌いな人ってあまり居ないんじゃないのかな。 ありがとのなかにも欺瞞や打算が入っていることがあります。 目が覚めることに絶望してしまう人もいます。 そんな人にとっては、おはようという言葉は呪いなのでしょうか。 じゃあ、僕はその人が嫌にならないおはようを、おもいやり、書き記したいんです。 たまにこういうことを考えて、思い出します。 あっ。僕たちはきれいなんだ。 どうして涙が出るのでしょう。 今は優しい話をしています。 どうしてでしょう。 きれいな気持ちだけ集めた朝です。 何も知らなくて、ただ世界がキラキラしてて。 ほとんどのことの名前も知らなくて。 ああ、わくわくするなって 感情が身体を支配していた時間の中にいるんです。 手を伸ばすということで、ここまでしか手が伸びないんだという限界を知りました。 それは僕にとっては絶望ではなく、喜びでした。この範囲の世界で生きていればいいんだ。 手を額に持っていくと日差しをよける影ができます。 僕の手の届く範囲にも、手の先にも無限があります。 移動すれば手の先だった場所が手の届く範囲になります。 でも前の場所には手は届きません。身体は無限でもない。心をそこに置いておきます。 手が届かなくても心はそこにおいておけます。 すべて私たちが歩いた場所にすべて。これから行く場所にすべて。 僕は心を置くことで、自分の範囲を広げます。 気にしないで。勝手にやるから。 何をしても変えられないものは変わらないけど。 同じように変わったことは変わったものだから。 なんでもいいんだ。 落ち着いた穏やかな気落ちで、今、心を眺めると、 ただ、全部の心の大地があなたで埋め尽くされています。 手の届く場所に。手の先に。前いた場所に。見える場所全部、 理論上存在していると認識している場所全部。 記憶の中でも生活の中でも、 全部の時間のあなたをちゃんとずっと見て、 大好きでいたいからいる。 誰に否定されてもあなたはずっと肯定してくれる。 大好きです。 死んだ人たちのことをたくさん思い出します。 思い出している間その人は生きている。 今は優しい世界にいるのかな。 死は最後の救いです。 ありがとう。でも生きてることが好きです。 僕は生きてることが好きです。 信じています。 自分のことを。 全部知ってもらう楽しさと心臓が二つになる喜びを。 信じないと始まらないから。 どうして涙が出るのでしょう。今は優しい話をしています。 生きていることが日差しの強さではっきりとわかります。 皮膚が光と熱を感じています。風が吹くと気持ちいいと身体が感じています。 夏の端
梅雨が終わり、夏になると 冬に見たときはこれなんの木だろう とも思わなかった木に キウイフルーツが成っていた。 秘密にしてたことを発表するみたいにたくさん成っていて、まだ小さい実は、 こっち見ないでねって 照れて言ってるみたいだった。 キアゲハが用水路の上の電線の高さ付近で 交尾をはじめた。 最初はふわふわと不規則な軌道を描き そのあと高く高く空の方にまっすぐのぼっていき、 そのまま交尾をしながら重力がなくなったみたいにすーっと急降下して軌跡だけ残して 視界から消えた。 探しても見当たらない夏の始まり。 |
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1月 2021
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