詩人(僕)にも詩にも今しかなくて、
その今を未来に挟んだり過去に挟んだりしてる。 どうやってるかはわからない。 でもそうとしか言えないということは実際にそうなんだ。 詩人にも詩にも今しかなくて、その今を未来に挟んだり、過去に挟んだりしてる。 どうやってるかはわからない。みたいな感覚で生きている。というところから始めたい。 感覚の話。個人に流れる絶対的なものの話。 殆どの作品は予感でしかない。 身体を予感が通り過ぎたり、予感が形になってる場所をみつけると それを言葉で描きとめている。 実録というよりそういう風にしか言えないものをそう描いている。 「書き留めている」のではなく「描きとめている」が生理的に正しい。 あるいは、土をこねていたり、建物を作っていたり、音楽を作っている感覚に近い。 その予感が持つ手触りを言葉でカタチにしている。 予感はいろんな形で現れる。 1秒未満の映像がいきなり脳で再生される場合もあれば、 一つのキーワードが脳内で見える場合もある。その両方の場合もある。 とにかく風が吹いて髪が揺れる。それは予感だったことが分かる。 予感は肌をすり抜ける。それは言葉になってしまう。 それらは僕が「今」と呼んでいる場所に行くパスポートのようなもので、 時間が経ちすぎると「今」にアクセスできなくなったりする。 どんなことをしているときでも。予感は現れる。 自分の何がどういう風にどこに繋がっているんだろう。 その予感をほかの詩人はどんな言葉にするんだろう? 僕にとってはその言葉でしかありえないものを。どんな言葉にするんだろう。 同じ予感を違うフィルターで通したものを見てみたい。 言葉にならないものを言葉にする装置。 言葉にならずにひっそりとそこにホントにいるものあるものやって来るものを 言葉に変換する装置。 どうやってるかは分からない。 何年前の作品でも、何年後かに描く作品でもそこにはやはり「今」しかない。 今とは何かそれは身体。 身体がないと人は今に留まれない 死んだあとも言葉は僕の身体である。 それを未来に挟んだり、過去に挟んだりしてる。みたいなことを考えている。 でもそこに時間は流れていない。今しかないから。 未来や過去というのは言葉でしかない。この辺が詩が詩になってる理由かもしれない。 僕にとって。 真実の探求にはさほど興味がなく。 それを探求する人間に崇高な空気と詩性を感じる。 そこには身体がある。それに今を感じる。 詩性を感じるような状態に人がなることを僕は愛している。 詩人(僕)には今しかないから、 その人が見つけた真実とか探そうとしている真理を理論で話されるより、 もう探求している状態の身体こそが僕にとっては真実そのもので。 詩性を感じる人の肉がそこにいるだけでいい。 そこに言葉はいらない。 でも、その人の詩性を詩にするために、 僕は居て、だから会話が必要で、会話は言葉でやっていて、 会話してるその時間、その人たちと僕は詩になっている。 その会話と空気から予感が生まれている。 予感が通り過ぎると言葉が出来ている。見たいな感覚で生きている。 今日も予感が訪れる。 言葉は僕の身体です。 僕が絵を描きたいだったり、フォントにこだわったり配置にこだわったりするのは 言葉が身体だと思ってるからかもしれない。 これは僕の身体です。そして、身体は感覚です。 予感を受容する。 コメントの受け付けは終了しました。
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1月 2021
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