時間が少し空いてしまったらけれど、僕とパンツとトンプソンについて、描いてみようと思う。 とても長くなるのだが、敢えていくつかに分けずにUPする。 最初にこれの紹介から。 もう一人の出演者、森政博がこの舞台に求めたもの、思ったこと。 ameblo.jp/setsunamori/entry-12330333163.html 大体この文章が語ってくれてるんだけど、僕も僕の角度で。 僕の方は写真でも載せてるけど、まず当日のパンフレットの文章を載せます。 以下です。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 本日はご来場いただき誠にありがとうございます。 今回、演出・脚本を担当した、久世です。 森君とはずっと何かをやってみたいと思っていました。 思っていたよりずっとずっと早くこの日がやってきました。 それはとても嬉しいことでした。 やりたいなと思っている人と出来る機会なんてなかなか巡ってこないからです。 ダンサーと詩人。森と久世。 何をやると二人にしかできないものになるのか。 色々と考えました。 素の詩人とダンサーがお互いのイマジネーションをむき出しでぶつけてじゃれあって 一番面白いカタチを探しました。アイディアはたくさん出てきました。 結果、今回は物語を通して自分たちを描くことにしました。 役者ではなく詩人として舞台に立つからには、言葉とカラダの可能性をシビアに追求したいですし、 森君の身体と個性をどれだけぶつけても壊れない何かの枠組みが必要に思えたからです。 ダンサーとして、詩人として自由に動ける状況ではなく、役を抱え物語を進めるという制約の中に自分たちを置いて、自分達の土俵ではない「演技」に取り組みながら、自分たちの持ち味を出そうともがくほうが、 二人にしか出来ない面白いものができると考えました。 物語の中だからこそ、より素直に今の自分を出せる。 素直になることはとても怖いことですが、それを避けて作品をつくってしまっては、 二人がやる意味がないと考えました。 それに、ジャンルの違う森君と一緒に何か同じものを夢中で追いかけたかった。 夢中で追いかけて気が付いたら日が暮れているような時間を過ごしそれをそのまま舞台にしたかった。 それには物語の中に身を置いてそれをどう二人でカタチにするのかを考えるのが一番簡単なように思えたのです。 30を過ぎると本当に素直になる機会も減りました。 素直になっていると思っていてもそこにはいい意味での諦めが入っている。 森君は素直にむき出しでモノをつくれる人でした。僕にはそれがとても有難かった。 森君の踊りは僕をどこに連れて行ってくれるのか、僕の言葉は森君をどこに連れ出せるのか。 物語の枠からはみ出るような、物語の中に居座りながら自分でいるような、 役と自分の境目が分からなくなる瞬間から思ってもいなかった自分が飛び出し、 自分たちが何をそんなにずっと踊ったり言葉をつくったりしているのかが伝えられるようなそんな時間をつくりました。 楽しんでいただけますように。 ------------------------------------------------------------------------------------------------------- 以上が当日のパンフレットの文章。 ここからは今回のことを改めて。振り返り。 最初森君とやろうと決めたとき「嘘がない舞台にしたい」と直感的に思った。 ゴテゴテ派手なことしたり、お互いの本音がお客様に届かないような作品になるのは違うなぁと。 それだけは最初からあった。 僕と森君はいつか何かやりたいなと思って魅かれあっていたけども、
そのいつかはいつになるか全く決まってなかった。 来るかもしれない来ないかもしれない未来の予定が、 急に本当のことになってしまった。 とても楽しみではあったことが実現するので、死ぬほどわくわくするんだけど時間もない。 更に我々二人は、この現場が始まった当初はろくにお互いのことを知らなかった。 顔を合わせているときは冗談以外何も言ってこなかったからだ。 ある意味で、その冗談のグルーブのみでお互いを好きになった。笑。 これはそうそうあることじゃない。 今までふざけてきた僕は、自分がずっと全力でふざけ続けると 最終的に周りに誰もいなくなることが分かっているからだw あと周りを無視してずっと自分を貫くほど自分勝手にもなれない。 だからいつもギャグ八分目くらいでやめてた。 でも森君とは出会っている時間のほとんどが、 お互い1参加者として参加している舞台のリハーサルの時間だったのに、 本当に会ってる時間の9割ふざけていた。 こんなにふざけてばかりいれる人にもう何年も出会っていない。 とても嬉しい! 更に冗談の内容はほとんどが突飛なウソだったり相手の不意を突くようなものだったり、 本人たち以外からすると全く意味の分からないもので僕たちだけが笑ってることも良くあった。 だから森君ももしかしたら、全力でふざけ続けられる相手を探していたりしたのか。 そうだったら面白い。 森君といつかやるなら、カッコつけずにこの関係をこのまま観客に面白いと思って貰えるといいなぁ。 自分たちが偽らない舞台になればいいなぁ。 そんなことを森君と会うたびになんとなく考えていた。 でもいざ一緒にやることが決まってみると僕は愕然とした。 「森君のこと何も知らな☆い」 なんならあんだけ爆笑してたギャグもほとんど思い出せない。 意味がなさ過ぎて覚えてられてない。 あれ? 一緒に何か作ろう。何をつくろう?森君の好きな音楽も漫画も尊敬してるダンサーも 俺は何も知らない。 あれ? 知らないと作品が創れない訳ではないかもしれない。 でも、今まで冗談しか言ってこなかった分、作品をつくるにあたって、 急激に森君のことが知りたくなった。 森政博という男は一体なんなんだ。 今、森君は35歳の肉体に何を閉じ込めて踊っているのか、 何故踊ることを選んだのか、どうしてまだ踊っていて、 何を面白いと思っていてどんな悩みがあるのか。 お互いにここまでは続けてこれた。 でもまだ人生は続く。ここからどうするのか。 どういう作品が今お互いにとって必要なのか。そして、観ていただく方にとって。 時間がないからさっさと脚本書くか企画を考えるかすればいいのに、 ここは絶対に時間をかけるべきだと思った僕は3日くらいこの話し合いに時間をかけた。 その間お互いにずっとお互いに質問だらけ。地獄のようなコミュニケーション。 遠慮なくこれまで冗談をぶつけ続けてきた僕たちが 「これくらいの作品だったら見世物としてアリだよね」 みたいな腑抜けた作品をつくるわけにはいかないし。 次こんなにちゃんと森君とやる機会がいつ来るか分からないんだから、 絶対に全力を出し切るものじゃないと自分達が主宰してやる意味がないし。 「何かよかったね」程度の作品を創ってしまったらテレビや映画よりつまらないものになってしまう。 全力を出すためにお互いの問題意識や昔も今も変わらず大好きなことなどを話し合った。 そしたらあーゆー物語が出来た。 あれは突飛な設定は1つあるものの、それ以外、ほとんど嘘はない。 嘘が無いように作っている。 嘘がないということは、保険がないということでもある。 これが否定されたら自分たちが否定されたことになる。 間違いなく乗っかってるのは僕と森君だから。 今回は劇中の役名も「久世」と「森」。 久世と森が「久世」と「森」を演じながら 素の久世と森に戻る場面もいくつかありまた役の「久世」と「森」に戻る。 今演技なのか素なのかわからんような作品というのは、 上手くやらないと「だからなんだよ」って感じで、ただただ鼻について終わっちゃうかもしれなくて。 でも今回は何処が素かどこまでが演技かどこまでが舞台でどこまでが日常か。 境界線をぐちゃってしたかったのです。 お互いアツい所があるのに照れ屋でところとか似てるから何処までがほんとか分からない舞台にしたかったし、 何か現実もどこまでホントで何がウソか分からないから自分たちのリアルを探したかったんだろうな。 だからどうしてもこういう舞台になったんだろうな。 詩人とダンサーで舞台に立って演技をして、 自分たちの丸裸をみてもらうということは 自分たちの素の魅力が今どれだけあるか試すってことで。 お互いもう15年以上やってきて、 素が人に愛されるくらいチャーミングなものなのか、 34になった自分はまっとうにおかしな人間になっているのかで 勝負できるか試してみたかった。 詩人の久世、演出家の久世、脚本の久世、役者の久世全部舞台に載せてみた。 自分で自分を描く。そして自分の言葉で泣いたり笑ったりする。 不思議な経験でした。 それぞれの立場によって考え方が凄く変わるのも 大発見だったな。 詩人の久世がOKしてることを演出家の久世はNOだというし、 脚本の久世がOKしてるのに同じ部分を詩人の久世が否定する。 森君も、ダンサーの森、演技の森、素の森、全部あそこにいた。 最初は出演するのはちょっと嫌だったけど、 最後は「俺以外の人にこれ絶対できひんからな」と思って、 とても誇らしくなった。 誰かに誇るというより、「一個自分だけのモノみつかったな」って感じで ちょっと自分の中で誇らしくなった。 森君は舞台に立つ観られる方の人間としては僕なんかよりよっぽど百戦錬磨である。 今回も何かと些細なギャグで場をごまかそうとする僕の悪い癖を森君はいい感じに収めてくれた。 「こことここは重複している」「ここはこれでもう表現できている」 などなど。本来は一人で抱えないといけない部分を助けてもらった。 役者本人の自我が、本人を演じる中でにじみ出てきてしまうそこも面白かったなぁ。 単純な分かりやすいお話としても成立してるけど、やってることは非常に複雑で。 自分のたくさんの側面を自分で演じ分けるという分かりにくく難しい作業や、 虚と実、自己と他者なんかを考える材料としても見れるようになってて。 あとは詩とダンスの専門家としての技術が求められまくる部分なんかもあって。 ダンサー、詩人、役者、素、僕らが所属しているいくつもの今の僕らの数々が 目まぐるしく次元を変えて存在してるのに観てるほうからは 普通のお話に見えるように書くっていうのはとても楽しかった。 伝わった人には伝わったからよかった。 あと今回本当にありがたかったのは。 森君が演出されることを求めているタイミングで作品を創れたことだ。 経験上演出を求めていないダンサーを演出することほど難しいことは無い。 体が閉じてしまっているからだ。演出に対して。 求めてないと演出されることに意味を感じないし窮屈に感じるだろう。 演出されることの意味や意義を感じられない場合もあるだろう。 だって、一人で全部できちゃうんだもんね。 一人いたら見せれるし、照明も音も考えられちゃうんだもん。 そして、必用ないものをやることを我慢できるほど気の長いダンサーは少ない 森君がちょっと今までやったことがないことをやろう!と思っていたタイミングだったから 色々なことを舞台に乗せられたんだと思うなぁ。 知りあいが観劇後に森君と話した時、森君はこんなことを言っていたらしい。 「よくあんなに踊りながら台詞しゃべれますね、久世さんはシャツ着ながら話すシーンだけでも苦労してましたよ」 「久世君は動くことで緊張するけど、俺は動いてないとリラックスできないからねって。」 面白いなぁと思った。この感覚の違いが愛おしかった。 違うから面白い。違うから知りたい。抱きしめたい。 これからもやっていきたいなあの作品。 嘘になったら嫌だからあれになれないように。 毎回そのときのたくさんの現実を探して。 やったら結局嘘は付けないと思うけど。 なんなら毎年か2年に一回くらいやるのは、自分の位置を確認する意味でいいのかもしれないな。 バージョン変えつつライフワークに出来たら良いと思う作品になりました。 生きることが作品の面白さに繋がるようなね ホントの自分を見せるために大きな嘘を一個付くだけでつくような そんなチャーミングな作品をもっとこれからも作っていこうと思います。 これを忘れないように次観たら恥ずかしくなるように気持ち悪い写真も載せておこう。 あと最後にずっと今回見守ってくれていた、ハート・トゥ・アートの渡辺さんが今回の舞台を 書いてくださった文章をここに置いておきます。 http://www.heart-to-art.net/BLOG/event/kuze_thompson-0035/ コメントの受け付けは終了しました。
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