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その時の話し​

肌理/under my skin

10/10/2018

 
10月6と7にのことについて。FBで書いた文章を転記。

​今日と明日行われてるパフォーマンスの演出をしてます。
 
 

美術館で、展示されてる絵と踊る、絵の登場人物と共演するという実験的な取り組みです。

 
 
 

今、一回目が終わりましたー!
 
 

このパフォーマンスのリハーサルをしながら強く思うのは「絵がしあわせそうだな」ってことです。
 
 

見られることって幸せです。
見られるためのものを創ったのであれば。

 
 
 

絵はもう何千年も黙ってるけど
絵だって見られると、話しかけられると、
喜んでる。気がする。

 
 
 

今回の作品は、うまくいくと、いつもは私たちに見られてばかりいる「絵」の「自画像」を「人間が描いている」ように見えたりします。

 
 
 

絵の自画像を人間たちが描いている。
絵ももちろん見られてはいるけれど。

 
 
 

観ていて、創っていて、
そういう印象が凄く素敵です。
グッとくるポイント。
 
 
 

人間が描く絵の自画像。
 
 
 

絵は人が創るけど、完成した絵は、作者の手を離れて独立した宇宙に浮かんでるように僕には見えます。
 
 

みられることに特化した小宇宙。絵画。

 
 
 

絵画の起源は影だそうですね。
プリニウスによると。
 
 

今回は期せずして、絵と影のバランスも素敵な作品になりました。
 
 
 

偶然ですが、絵の起源から、絵を見ることを探すようなパフォーマンスになりました。

 
 
 

絵を踊る、人が踊る、影と踊る。
影が踊る、絵と踊る、人と踊る。
人と踊る、影を踊る、絵が踊る。

 
 
 

絵をみているとき、人間の身体に一体何が起こっているのでしょうか?
 
 
 

最初に絵を見たときの感動。
もしくは大好きな絵に出会ったとき、出会って「しまった」ときの体の不確かさ、心の消滅、明滅の仕方。

 
 
 

絵を見るってなんだろう?

 
 
 

今回は、一人のパフォーマーが絵を見るときに自分の中に起こったことを拡張させて、誇張して、表現していくカタチをとりました。

 
 
 

極私的な感覚をブラッシュアップさせて、それによって「絵を見ること」を観客がパフォーマーを通して追体験していく。

 
 
 

だから、パフォーマーの絵の見方で「絵を見る」ことになるんですが、
 
 

「私ならこうみるな」とか「私とは違うな」だったり「私も絵をみるときこうなる」だったり「自分が普段絵をどう見ているのか」も浮き彫りになっていく。
 
 

それも趣深いです。

 
 
 

  

見ること。
 
 

絵をみるってなんだろう?

 
 
 

絵と対峙する全ての起点は見ること。

 
 

見ることは、対象との距離を測ることでもあります。
 
 
 

例えばこの絵は自分のことなのか、それとも全く違うことなのか。
 
 
 

絵って、みて、心が動いたりするけど、こんな感覚始めて!ってなったりすることもあるけど、
その絵をみて心が動く場所は最初から自分の内側にある気がします。
 
 
 

まだ出会ってない絵でも。その絵のための場所は最初から自分の内側にある。

 
 
 

 みなさん壁画は好きですか?
 ラスコー洞窟、アルタミラ洞窟とか。
 僕は好きです。
 
 
 

抽象的な表現だけど、絵を見ることって「マックラな大きな洞窟の中を自分の目という光だけを手に歩く行為」でもあると思うんです。
 
 
 

そして、絵「ごと」に、自分の内側に洞窟があるような気がします。

 
 
 

人間の中に、最初から絵と対峙できる空間としての大きな洞窟が、絵の数だけは少なくともあるんじゃないかと思います。
 
 
 

もちろん、全部の絵にアクセス出来るわけじゃ無いけど、アクセスして、深くなにかを感じた絵、これから感じる絵の数だけ全て、自分の内側に洞窟がある。

  
 

地図も何も渡されていない洞窟の中を、
目だけを頼りに歩いていくといきなり大きな絵が現れる。

 
 
 

それは、とてつもなく呪術的なものだし、根源的なものだし、絵をみたことがない人は絵を見るってことだけで圧倒されてしまうんじゃないかな。
 
 
 

もし、人間に言葉がなかったら絵のことを言葉にして整理して逃げてしまうこともできない。

 
 

そんな感覚を知覚できたらなぁと思います。

 



 絵を見るって、洞窟の中に住む龍に会うみたいだって感じがします。
 
 

洞窟の中を照らすと大きな龍としか言えないわけのわからないものがいた。
優しいか優しくないかまだわからない。 
 
 

分かり合えるか分からない。
分かり合えるとかじゃないかもしれない。

龍が住んでいる、なにかの息遣いのある洞窟。
 
 

龍(絵)に出会う前は、龍がいないから、その洞窟が自分の中にいくつあってもあまり意識することはないけど。
 
 

その龍(絵)が自分の中に帰ってきたら、その洞窟はとてつもない存在感を醸し出してくる。

 
 

絵は龍!
そして、絵は一つの「意味」。
意味とは言葉にならない、「それ」を見たときにしか感じない、湧き起こらないなにかです。

 
 

もし、絵をみたとき「言葉」をしらなかったら。言葉にすることもできやしないから、ずっとぐるぐるぐるぐるムネの中で何かが渦巻く。大きな何かわからない、総体の見えない何か。
 
 

それって僕のイメージだと龍に近いんです。 


 
 

ただ、自分の目、思考、視点という、ロウソクやランタンの灯りのような不確かなもので照らし出される確かな世界のカタチが絵にはあって、それを通して、自分の心の中にこんなに巨大な穴がいくつもあいてたんだ、みたいなことを感じて貰えれば幸いです。

 
 

1つの絵に出合うために1つの洞窟にいく。
自分の目というランタンを持って。
そこはどんな洞窟なのか。
絵は内側にあって。鑑賞が終わっても。コチラが閉じない限り、その洞窟は閉じない。
 
 

 絵を見るときって一体なにをしてるんだろう。
 人に何が起こっているんだろう。
 
 

まだまだ探りたい。
いろんな角度で探したい。
 
 

良かったらまだ明日もやってるんで来てください!明日僕はいませんが。
作品がお迎えします。
今日の夜の回は居ます。
 
 

 あぇぇぇぇぇ!!!!!!!!!!!!1
 
 

 絵を見るって面白いなぁ。
 
 

今日はこの後18:30から。
明日も、16:00,18:30で、末広町でやってます。
さよならに、塩と胡椒という展覧会で、肌理/under my skinというのがパフォーマンスのタイトルです。

    久世孝臣

    詩人・演出家。
    過去の作品の記録を書いていきます。

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