野菜を切るときには包丁を使うよね。 でも使わない時もあるね。 レタスとかは手でちぎることが多いしな。 穴を掘るとき、スコップを使うよね。 規模によっては大がかりな機械を使うこともあるけど、 道具を使わず手で掘ることもある。 モノを食べるときも大抵、箸やフォークを使うけど手で食べるものもある。 自分で選べるよね。このときは包丁だ、スコップだ、箸だ、手だって。 時間についてもそういう感覚を持っていた方がいいんじゃないかと思っている。 ずっとずっとそのことを考える状態が続いている。 「時間」の流儀に倣って言葉を使うと そのことを「何年」も考えている。 この「時代」に生まれた限り 「時間はある」と言えてしまう。 水を飲むとき、入れ物を使うね。 でも、使わない時もあるね。 あまりないことだけど、 そのまま口で飲むときも人生で一度くらいはあると思う。 自分にはなくても、例えば蛇口から直接水を飲むことを、 想像することはできると思う。 時間て何だろう。 時間てほんとにあるのかな? 僕は現時点では、時間というものはもともと自然界にはないと思っていて。 時間は人間がつくったただの道具だと思って生きている状態が続いています。 包丁やスコップや箸のように。だから、あるのはある。 でも、使いたくないときは使わなくてもいい。 人が人と関わりやすくするための便利な道具。 道具は使うもの。 道具に使われることになるとちょっとしんどいなぁ。 道具の為に生きるのは違う気がします。 包丁やスコップを使うために生きるのはちょっと違う気がするのと同じように。 時間は人が生きるときに共通認識していた方が 生きられる「考え方」という道具。なんじゃないかな。 待ち合わせるときや、何かを発表してそれを見せるとき、時間が無いと 誰にも何も伝わらない。 時間の発明はもともとは人が人と生きていきやすくした結果 うまれたものな気がするんです。 時間という考え方は道具。言葉も道具。人と人が繋がりやすくなるための道具。 友情という概念も、愛という概念も言葉になればそれは自分を含めた誰かに そのことを伝えたり、そのことだけを抜き取って考えたりするための道具。 言葉が無いと世界の全ては全てが並列で、砂漠の真ん中で指針が無く立っていて、 どこに足をすすめたらいいのかわからないから、 部屋を整理するように、本棚を整理するように、 世界を整理する為に言葉が発達してきた。 言葉は世界を効率よく、整理してくれる。 この砂にはこういう意味がある。この砂とこの砂には近い意味がある。 でも、世界はやっぱりすべてが並列で、優劣の世界ではないと思う。 もともと、砂しかないところ。名前を付けても儚いところ。全部は言葉にならないし、 言葉になったものも砂ですから。 砂漠のように。海のように。空のように。孤独とも自由とも何ともとれるこの世界。 優劣の世界を選べる可能性も含めて並列で、それぞれに意味があって意味がない。 時間の前にはどんな偉人も、フツーの人も平等だ。 時間はあるじゃないか。だって誰もが死ぬんだから。 でもやっぱり時間て本当にあるのかな? 時間という道具を採用したら 「誰にとっても時間の前では平等だ」 時間という道具を採用したら 「時間が経つと誰もが死ぬ」 時間は人があると決めればあるけれど。使うと決めれば使えるけども。 でも、そこから解放されてもいいんじゃないか。 必要な時だけ、クローゼットから引っ張り出して、便利な「時間」を身にまとえばいいと思うんだ。 絶対にその服を着なくちゃいけない毎日はおかしくないか? 時間の前でも、根源的な意味でも 人は本来並列で、それが平等というかはわからんけれど。 木だって、石だって、昼だって夜だって、 時間があるから存在しているのではなくて、 時間という道具が無くたって自由にそこにいる。 時間は有限だ。時間という道具を使い続けている間だけ私たちは有限だ。 なかなか使わずには過ごせない時間という道具を使わずに 時間の外から言葉を描こうとしています。有限の外から。 声が聞こえますか。聞こえたらいいなぁ。 人肌の中に埋まるとき、僕に時間が消えたんだ 人肌の中に埋まるとき、相手の時間も消えたんだ 声を届けたいな。 人の声を。時間という道具を使わずにいられない状態から離れられるように。 使いたいときだけ自分で選んで時間を使えるように。 人肌と時間という考え方。両方を持てるような。 声には身体も思考も僕の個の情報のかなりのものが詰まってる。 世界は・・・・ 世界の方からは、僕とあなたが有限なんて、絶対一度も言ってない。 コメントの受け付けは終了しました。
|
詩描いた詩を載せていきます。過去のものも載せていきます。 アーカイブ
1月 2021
カテゴリ |